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No.204 松下村塾にみる【人材育成の本質】

● 吉田松陰とは?

「松下村塾」で有名な吉田松陰は、個人として優れた功績を残したり、成功を収めたわけではありません。

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今でも、その名を知る人は多いですが、
松陰の生まれ故郷の山口では「高杉晋作の方が有名人、大きな功績を残した人」とされています。

吉田松陰は、
脱藩、密航、暗殺計画、度重なる投獄など、失敗続きの人生。。。

だからと言って、
まったく価値の無い人だったのか、、、
ということではありません。

吉田松陰には、誰にも負けない、最大の功績があります。

それは「優れた後継者を育てたこと」です。


独りの人生において「仕事の成果への評価」として、

カネを残すは【下】、仕事を残すは【中】、
そして、ヒトを残すは【上】 という言葉があります。

※参考まで、
感動を残すは【最上】、と誰かが付け加えていました。


その志を受け継いだ塾生・門下生たちが、幕末から明治維新期に活躍し、日本を変えていきました。

● 松下村塾とは?

松下村塾は、長州・萩の片田舎、小さな私塾から始まりました。
僅か2年の期間でしたが、多くの塾生・門下生を抱えました。

松下村塾が無くなった後も、塾生・門下生は、吉田松陰の教えや日本を変えていくという志を忘れませんでした。

それが、内閣総理大臣2名(伊藤博文、山縣有朋)や、近代日本の礎を築いた明治政府の重役など、多くの人材を輩出していくことになります。

● 吉田松陰の教えと教育方針

松下村塾での吉田松陰の教えと教育方針は、実に生々しく、きめ細かいモノでした。

吉田松陰は入塾希望者に「なぜ学問をしたいのか?」とよく聞いたそうです。

その問いに、門下生だった人の多くは、
「書物が読めないので、稽古して読めるようになりたい」と答えたそうです。

すると松陰は、
「書物なんかは心掛けさえしておれば、実務を覚えるなかで自然と読めるようになる。ただ読めるだけの学者になっては駄目だ。人間、実行が第一である」と伝えていたようです。

吉田松陰は、塾生・門下生たちに対し【実行第一】を頻繁に述べており、「学問とは行動を伴ってこそのモノである」としていました。

「至誠にして動かざるもの未だこれあらざるなし」という孟子の教えを自身の座右の銘としたほどです。

● 松下村塾は僅か2年

吉田松陰が主体となり「松下村塾」で教えていた期間は僅か2年です。
しかも、門下生たちが集まり松下村塾の最盛期と言われた期間は僅か1年だけ。
塾生が集まりだし、塾舎を新たに広くして、正式な「松下村塾」の形になったのは松陰が投獄されるたった1年前のことでした。

つまり、私達が伝え聞いている「松下村塾」とは、門下生たちによる吉田松陰の教え・志をを受け継いできたモノのようです。

それゆえ、長州の萩という辺境の田舎、小規模な私塾から、幕末と明治維新期に多くの人材を輩出したのは、ある意味で【奇跡】と言えます。

● 長所を伸ばし自覚を促す

松陰は人を疑わず、【人の善を見ること】を大切にしていました。

松下村塾の塾生には高杉晋作を筆頭にクセが強く、頑固な一面を持った人々も多くいました。

維新の三傑の一人、桂小五郎(木戸孝允)が高杉晋作の人の話を聞き入れない頑固さに手を焼き、松陰に手紙で「高杉晋作になんとか言ってやって欲しい」と言ったほどです。

しかし松陰は、「その頑固さが高杉晋作の魅力であり、矯正すれば彼の良さが消えてしまう」として逆に桂小五郎をなだめてしまいました。

高杉晋作が入門した当時、その鋭気な性格を評価しつつも学問に弱点があると見抜いた松陰は、高杉晋作が幼き頃から知る仲だった久坂玄瑞をライバルに仕立てあげ、事あるごとに久坂玄瑞を褒めました。

内心面白くなかった高杉晋作は燃えるように学問に励み、みるみるその才能を開花させていった逸話は有名です。

悪い部分は見抜いたとしても、基本的に良い部分をしっかり理解できていれば、それを伸ばすというのが基本的な考えだったようです。

● 参加型の議論と討論

私塾というと、教える側が永遠と眠くなるような説教臭い話を「講義形式」でやることをイメージします。

しかし、松下村塾では集団を相手にする「講義形式」をとることもあれば、また「違った形式」をとることもありました。

基本は「参加型の議論と討論」が中心で、決まったカリキュラムは特になく、それぞれの目的とペースに合わせて進めました。

議論と討論は、最初から活発なモノではなかったようです。

今もそうですが、この時代の若者も、「自分から積極的に話す」という人は少なく、議論は慣れておらず、あまり話さない。
それを物足りないと感じた松陰は工夫を凝らしていったようです。

講義は1対1の形式(塾生対塾生)の形をとることもあれば、一人の塾生が順番で多数の塾生を相手に講義を行ったり、「対策」と称して松陰から出された課題に作文のような形で塾生が提出し、それを添削する方法もありました。

任意の読書や自習の時間もあり、連絡事項があれば壁に貼り付けていたといいます。

高杉晋作が書いた対策(課題提出)が現存しており、その答案用紙は松陰の添削で真っ赤っ赤。
しかも、二人の間を3往復し、最初は「読む気がしない」とまでこき下ろしておきながら、最後にはきっちり「これはまさしく我が国の文」と松陰の大絶賛で締めくくったそうです。

● 共に学ぶ

講義は時間割もなく、登校の義務さえナシ。

テストなし。通信簿のようなものはあったようですが、それほど重要視もされておらず。

塾生が集まると講義が始まる。その講義は塾生同士はもちろん、松陰も加わっての活発な議論が中心。

決して口うるさく注文はつけず、一人ひとりの自主的な参加意識によって維持されていた松下村塾は身分や年令による縦割りの意識、上下関係を一切捨て去り、自由闊達な議論と討論が行われたと言います。

高杉晋作が江戸遊学のときに吉田松陰が佐久間象山宛に紹介文を書いています。そこでは、高杉晋作を「友人」としており、門下生や弟子といった表現は一切使いませんでした。

松下村塾では、教えるのではなく「共に学ぶ」という謙虚な姿勢が大事にされていたようです。

そこには、今にも通じる「学ぶ」本質があるのでは、と考えます。

人材育成の本質は今も同じであり、
「松下村塾の育成システムと工夫」は現代でも十分に参考にできると思います。

株式会社シーアークスHP